全てミニミニサイズの贅沢

映画「湯道」を見て

 

1番印象的だったのは、登場人物の男性が

退職金で自宅のお風呂を檜風呂に改装し、

さも幸せそうな笑顔でお湯に浸かるシーン

 

確かに檜風呂だけど、一軒家の普通の浴室を

改築しただけだから狭くて、

温泉旅館のような空間の贅沢さは

見ていても正直全然なかった

 

人間は定年まで働いても

こんな小さな贅沢しかできないのか、

しかもそれで満足できるようになるのか、と

勝手に暗い気持ちになって、

男性が幸せそうな顔をすればするほど、

私からはその様子が滑稽に見えた

 

でも、それと同時に

小さい檜風呂が1人でお湯に浸かる男性に

ぴったりサイズだと思って、

人間1人にはこのサイズでじゅうぶん事足りると

なんだか納得している自分もいた

 

だから何が言いたいかというと、

人間がいかに規模の大きな贅沢を追求しても

贅沢を享受できるのは人間1人分だけということ

 

広い温泉を独り占めしたとしても?

一度に1人分のスペースしか使うことはできないし

たくさんの料理をテーブルに並べても?

一度に1人分の胃に収まる量しか食べられないし

ディズニーランドを貸切にしても?

一度に1人分しか遊ぶことはできないし

規模で贅沢を図るのは難しい気がする

 

どれだけ規模を追求しても、

地球規模で見れば人間サイズの、

小さな小さな贅沢でしかないわけで

それは稚拙で取るに足らないものに見えてしまう

 

では質か?

質を高めれば高めるほど、贅沢になるのだろうか?

 

ミニサイズであっても、質が良ければ

それは稚拙な喜びではなくなるのだろうか?

 

そもそも質とは?

自分が払った対価によって決められる?

それとも自分が受ける恩恵によって決められる?

質の高低は何を以て判断すべきなのだろう?

 

明日は質について考えるようにしよう

 

おやすみなさい

挺身への憧れ

ここ最近の、憧れの境地は挺身である

 

なぜなら、挺身こそ、

人が成しうる最も美しい所業であるから、

私がここ最近、そう強く感じているからである

 

誰かのためあるいは何かのために、身も心も全てを捧げ、幸せと誇りの中、燃えかすのように死んでゆきたい

 

でも、今の自分には何もない

主体性とか、価値観とか、ポリシーとか、

思考力に判断力、プライドとか、理想とか、

突き詰めたいことも譲れないものもなくて

 

ぐにゃぐにゃと日々の出来事を

当たり障りなくやり過ごしてきた対価が

こんなところに出るなんて思っていなかった

 

もう大人、仕事もある、

歳を重ねるごとに自分の目の前にある

沢山の分岐の道が凄まじいスピードで

閉じられていくのを感じ、焦っている

 

不安なのだ

 

不安だから、挺身に憧れを抱いている

 

挺身には、心身を捧げる先が必要不可欠である

ここでは、自分が何を考え、何を好み、何を嫌い、何に心を動かし、何に喜びを感じ、何に不快感を覚えるのか、日々感じたことを文章で書き記していき、

自分自身の人生の至る先を思い描いていきたい

 

それが、何かへの挺身であれば、

それ以上の幸せはないと思っている